本文へジャンプ 教室の沿革(教室の設立、歴史、変遷など)
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 日本医科大学の礎は明治9年(1876)長谷川泰の創立した済生会舎に遡るとされ、2007年創立130周年をむかえた。
 この130年あまりの歴史の中で、解剖学教室の歴史は次の6期に分けて述べられるのが適当であると考えられる。明治37年「私立日本医学校」創立から明治45年「財団法人私立日本医学専門学校」として認可までを第1期(明治4345年)、日本医学校時代とし、第2期(明治45年〜昭和5年)を日本医学専門学校時代とする。第3期(昭和5年〜21年)は大学に昇格し、発展した時期であるが、戦災で大学ともに教室も灰燼に帰す。この時期教室は専任の勝又正教授、小笠原四郎教授により研究、教育が漸く充実してきた時期でもある。第4期(昭和21年〜46年)は疎開先の鶴岡から戻り、大学再建が始まったときをもって始まりとし、解剖学講座が二講座制に確立する昭和46年までである。そして、第5期(昭和46年〜平成16年)は解剖学第二講座として独立した歩みを重ね、第6期は、解剖学講座<生体構造学>としての現在にとなる。

 第1期:明治37年に創立された「私立日本医学校」では解剖学は前期2年間に毎週12時間講義されていた。創立時の名簿には大串菊太郎、杉本元亜、佐藤亀一の名前があがっているが、職位としては「教師」であり、これらの諸氏の現職は東京帝国大学医科大学助手であった。明治439月においては竹崎秀薫、大串菊太郎、杉本元亜、佐藤亀一が教授として在籍しているが、この時医学専門学校認可に向けて制度が整備されたときにあたるのであろう。しかし、各教授ともに学校の改組とともに明治459月に退任している。ここでは明治43年をもって本学解剖学教室に教授が在籍したとみなし、歴代教授の始まりとすることにする。


 2:明治459月「日本医学専門学校」として認可発足し、解剖学教授として池田孝男、工藤喬三、原正、二村領次郎、小池敬事、上田常吉、森於兎、藤井静雄の諸教授と香山明助教授が名を連ねている。
 池田孝男教授は昭和5年日本医科大学教授として退任するまで教室の充実に尽くし、大正4年の解剖および組織学教室の新築に貢献した。内臓転位、淋巴管についての業績がある。工藤喬三教授(後に満州医大教授:筋破格、菱形窩、人種人類学)、原正教授(後に長崎医大助教授:日本人とアイヌ人の頭蓋骨、日本人の脳の重量、鯉・鮒の口蓋粘膜の味蕾)、小池敬事教授(後の新潟・千葉大教授および両大学長:各種動物の臓器発生、人類学)、藤井静雄教授(後の京城大教授、高血圧)、香山明助教授(日大医学部の前身へ、明華女子歯科医専創立者)は就任期間は短かったが、教室に刺激を与えた。二村領次郎教授は始め兼任であったが、後に東大教授を辞し、専任となり、学部主任を務めるが昭和3年急逝した。顔面神経と顔面筋の関係の研究に当たると共に、解剖学書・組織学書を著した。講義中の黒板の図は消すのが惜しいほどだったという。森於兎教授は大正8年医専教授となり、昭和11年医大教授として退任する。教室の整備に尽くし、退任後、台北大・東邦大教授を歴任する。皮膚色調、光電色沢計、蚊の発生、鶏胚の卵殻外発生の研究論文の他、解剖学・組織学の教科書を著した。また、随筆もよくした。この他、薄田七郎教授は大正15年医大教授となり昭和5年退任、後に新潟癌センター所長になる。悪性腫瘍に関する業績が多い。横尾安夫講師(後の本学名誉教授)、浦良治講師(後の東北大名誉教授:哺乳類の皮筋、注入法による血管発生の研究で業績をあげるとともに、人体解剖実習図譜を著し、解剖用語選定についても功績があった。)は専任講師として教育に当り、森教授と共に肉眼解剖の専門家による講義を行い、この時期の一つの特長となる。

 第3:昭和5年日本医科大学解剖学教室となり専任教授制がしかれ、勝又正、小笠原四郎が助教授に着任し、近代的な教室作りが始まり、後昭和11年それぞれ教授となり教室の形態が整った。研究面では勝又教授が両生類の形態学を、小笠原教授は体質人類学を標榜し、研究・指導にあたった。勝又教授は両生類の実験発生学的研究ならびに人類学で業績を上げると共に解剖学・顕微解剖図譜を著し、解剖学用語についても造詣が深かった。後に横浜市立大教授、福島医大学長となる。小笠原教授は体質人類学研究を行い、後に昭和医大の教授となる。教育面では教育用の標本、掛図等の整備拡充が行われ、本学独特との評判が高かった。これらの作成には足立喜八郎技術員、米倉隆画伯の貢献が大きかった。当時勝又教授は発生学、運動器系、末梢神経系、脈管系、小笠原教授は内臓学を、浦講師が中枢神経系、金子丑之助助教授が組織学を講義したといわれる。

 この時期の大島信道(昭和27年助教授、37年退任)、佐藤隆道、滝沢安子吉(後の群大教授)が相次いで入室している。このように充実した教室が作られていたが昭和20年空襲によって解剖学教室は全財産を失った。戦時中のためただちに復興はならず、疎開することになり勝又教授は山形県鶴岡市で、金子助教授は福島県須賀川町で教育を続けた。戦後復帰の際、勝又教授は昭和21年、小笠原教授は22年それぞれ退任し、21年金子助教授が教授に、新たに23年横尾安夫教授が迎えられ、戦後の復興期、第4期が始まった。

 第4:金子教授のもとに大島信道助教授、江藤盛治講師(第一講座を経て、後に獨協医大教授)、高石敏助手、吉川文雄助手(後に日本医大教授)、金子勝治大学院生(後に埼玉医大教授)と島田誠一技術員があり、横尾教授のもとに小林茂夫助教授、森本正昭助手、小原護助手、三上哲助手、芦沢雅夫大学院生(いずれも着任当時の職名など)があり、二つの教室の特色が明らかになっていく経過が伺える。
 金子教授の研究領域は比較体質学と広義の解剖学であるが、当時の教室の最大イベントは何といっても「日本人体解剖学Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」の出版であろう。Ⅰ巻は昭和31年、Ⅱ・Ⅲ巻は32年の刊行である。高石敏助手は公私にわたって金子教授を支えた。大島信道助教授は昭和6年助手、その後応召を繰返し、21年講師、27年助教授となり、その間バラウ島人の理紋、内蔵色、皮下脂肪体などの研究を行ったが、36年退職した。金子勝治氏は大学院修了と同時に助手、昭和43年講師となり、金子教授が定年後埼玉医大教授に赴任したのに伴い、47年助教授として転出した(後に教授)。昭和47年谷家章五副手が入室し、44年に助手になっていたが、昭和52年助教授として同じく、埼玉医大に赴任した。 横尾教授は人類学、奇形学、神経発生などで研究成果をあげ、組織学書や発生学書を著した。小林茂夫助教授(後に新潟大歯学部教授)は歯嚢の線維、日本人胎児頭蓋発育について研究した。芦沢雅夫(助手から大学院へ、47年講師、49年獨協医大助教授に転出、平成4年同教授)は肉眼解剖学、先天異常体の形態学研究に従事した。 施設面においては昭和36年解剖学実習棟が新築され、さらに昭和44年同棟を増改築し、現在の教育研究室が作られた。
 昭和42年横尾教授が定年退職し(本学名誉教授)、後任に中村逸雄教授が43年着任した。昭和46年金子教授(後に本学名誉教授、埼玉医大教授)の定年退職により吉川文雄助教授が教授に昇格した。
 これにともない名目的であった2講座制を、実質的に確立し、独立して機能しながら協力する態勢にすることになった。
 
 5:昭和464月金子教授の後任として、吉川文雄教授が講座を担当することになった。吉川教授は昭和28年助手、35年講師、38年助教授を歴任してきた生え抜きである。脾臓の解剖生理で業績をあげ、合成樹脂注入鋳造法を開発して主として血管構築の研究を行うとともに、美しい教育標本も残した。また、昭和559年「人体系統解剖学」を出版した。肉眼解剖、特に、胎生期の解剖において多数の論文を指導して、後輩の指導にあたったが、昭和61年、惜しくも急逝した。吉川教授在任中の入室者は昭和49年田沼久美子助手、50年浅川光夫助手、51年小倉和子助手、52年北沢命助手、57年宮本孝昌助手である。技術主査に島田誠一、研究補助員に松本昌子が在籍した。
 吉川教授の後任に昭和61年伊藤博信教授が大阪大学助教授より就任した。伊藤教授は講座の今までの研究分野と異なる神経解剖学を専攻するため、第二講座の態勢は少しく変容することになった。すなわち、第二講座はこれまで通り肉眼解剖の教育を引き継ぐと同時に、伊藤教授の専門分野である比較神経学の研究室として衣替えした。着任以来研究を活性化するため、内山博之講師、吉本正美助手、山本直之助手、山根洋一助手、を次々と招き、さらに平成4年には金沢大学医学部を定年退官した根岸晃六名誉教授を客員教授として迎えた。内山講師は網膜へ投射する系を見いだして「向網膜系」と名づけ、この系の受容ニューロンが網膜の新しいタイプの細胞であることを提唱した。山本助手は脳内に分布するゴナドトロピン放出ホルモン産生ニューロンは、脳内ではなく、鼻プラコードに由来していることを実証した。吉本助手は視蓋前域の解析を行ない、コイ目の脳の特殊性を進化の点から考察した。内山講師は平成6年に鹿児島大学工学部助教授として転出し(現在は教授)、また吉本助手、山本助手は講師に昇任した。伊藤教授は平成163月に定年退職となり、名誉教授となった。

 第6期(現在):平成174月に現在の主任教授である小澤一史が京都府立医科大学大学院医学研究科生体構造科学部門助教授より着任、神経解剖学、神経内分泌学を中心とした研究室への改組を行っている。小澤教授は「脳とホルモン」、「思春期発動に関わる神経および神経内分泌系の機能形態学」を専門とし、免疫組織化学、in situ hybridization、電子顕微鏡などの研究手法を始め、分子生物学的、細胞生物学的研究手法を積極的に導入し、新しい分子イメージングによる問題解決アプローチの取り組みを行っている。平成18年に浅川光夫助教授が退職、平成194月には山本講師が名古屋大学大学院生命農学科の准教授として栄転、また田沼久美子准教授は平成203月末で定年退職となった。これらの人事異動に伴い、教室の体制替えが進行し、平成1910月より飯島典生が京都府立医科大学解剖学講座学内講師より赴任し、准教授に、また平成204月には松﨑利行が群馬大学医学部解剖学講座助教より准教授として着任、同じく4月より松本良平が京都府立医科大学精神医学講座より助教として着任し、新しい研究体制がスタートしている。なお、長く用いられた第1,第2の講座名は変更となり、解剖学第一講座は解剖学講座(分子解剖学)、解剖学第二講座は解剖学講座(生体構造学)となった。また、解剖学講座(生体構造学)は大学院医科学研究科として生体制御形態科学分野を担当している。


歴代教授

歴代教授を一覧として掲げておく。初期の頃の教授はこの名称が用いられるようになってからに限定することにし、また、主任教授をおく2講座制がとられるまでは解剖学として記載する。


 解剖学

 池田 孝男    明治43年〜昭和  5

 工藤 喬三    大正  4年〜大正  5
 原 正       大正  4年〜大正  6
 二村 領次郎   大正  4年〜昭和 3
 小池 敬事    大正 7年〜大正 7
 上田 常吉    大正 8年〜大正 8
 森 於兎      大正 8年〜昭和 11
 藤井 静雄    大正 12年〜大正 15
 薄田 七郎    大正 15年〜昭和  5
 勝又 正     昭和 11年〜昭和 21
 小笠原 四郎  昭和 11年〜昭和 21


 解剖学第一講座(現在、解剖学講座(分子解剖学))


 横尾 安夫    昭和 23年〜昭和 43

 中村 逸雄    昭和 43年〜昭和 63
 山下 和雄    昭和 63年〜平成 15
 瀧澤 俊広    平成 15年〜


 解剖学第二講座(現在、解剖学講座(生体構造学))


 金子丑之助    昭和 21年〜昭和 46
 吉川 文雄    昭和 46年〜昭和 61 
 伊藤 博信    昭和 62年〜平成 16

 小澤 一史        平成 17年〜

その他(献体状況及び解剖慰霊祭など)

 本学への献体は完全に日本医科大学白菊会を通じて行われている。平成2012月現在の本学支部の総会員数は2057名、うち生存会員は848名である。年間の入会者は平均約40名である。これまで献体された方々は合計866名に上り、年間約30体を解剖している。慰霊祭は毎年5月の第2土曜日に無宗教献花方式で本学講堂において行なっている。 

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