About Nippon Medical School大学紹介

Disaster Relief Reports災害支援報告

東日本大震災に対する日本医科大学医療支援報告

この度は、3月11日(金)に発生しました東北地方太平洋沖地震により被災されたみなさまに、心よりお見舞い申し上げますと共に、みなさまの一日も早い復興をお祈り申し上げます。

本学では、震災当日よりDMAT活動を中心とする急性期医療活動を開始し、その後も引き続き気仙沼を拠点とする地域の医療支援活動を継続してまいりました。この度、被災地域医療機関の復旧に伴い、東京都および関係機関との協議の結果、5月末日をもって本学の医療支援活動を終了する運びとなりました。この間、医師のみならず看護師、薬剤師、事務部、医学部学生等、多方面のみなさまにご協力をいただきましたこと、心よりお礼申し上げます。

学校法人日本医科大学

  • 医療支援最終報告

    平成23年3月11日(金)に発生した東日本大震災により、被災された皆様に対し、心よりお見舞い申し上げます。また、一日も早い生活の安全と復旧を願って止みません。

    本学では、震災当日よりDMAT活動を中心とする急性期医療活動を開始し、その後も引き続き気仙沼を拠点とする地域の医療支援活動を継続してまいりました。この度、本学救急医学教室における医療支援活動の最終報告書を作成いたしましたので、ご報告いたします。なお、この報告書を含め、本学の医療支援活動の概要を、日医大医会誌第7巻Suppl.1として刊行いたしました。下記よりご覧いただけますので、併せてご参照ください。

    特集号「東日本大震災日本医科大学の対応」
    https://www.nms.ac.jp/sh/jmanms/toc/0070Scon.html

    東日本大震災に対する日本医科大学救急医学教室の取り組み
    われわれはどう行動したのか

    日本医科大学付属病院 高度救命救急センター
    増野智彦、渡邊顕弘、五十嵐豊、萩原純、恩田秀賢、新井正徳、
    辻井厚子、宮内雅人、布施明、川井真、横田裕行

    The Relief Operations of Department of Emergency and Critical Care Medicine, Nippon Medical School
    – How we acted in response to the Northern Japan Earthquake.-
    Tomohiko Masuno, Akihiro Watanabe, Yutaka Igarashi, Jun Hagiwara, Hidetaka Onda, Masatoku Arai,
    Atsuko Tsujii, Masato Miyauchi, Akira Fuse, Makoto Kawai, Hiroyuki Yokota

    はじめに

    日本医科大学ではこれまでも、2004年新潟県中越地震、インドネシア・スマトラ島沖地震、2007年新潟県中越沖地震、2008年岩手・宮城内陸地震、2009年ミャンマー連邦サイクロン被害等をはじめとする国内外の数多くの自然災害・人的災害にいち早く医療チームを派遣してきた。今回、2011年3月11日に東北地方太平洋沖で発生したM9.0の巨大地震および津波による未曾有の災害に対しても、これまでの経験を生かした迅速な対応がなされ、震災当日よりDMATチームを派遣し急性期医療活動を行い、それに引き続き付属4病院の医師・看護師・薬剤師・事務・学生をはじめとする全学的な協力・支援体制のもと、約3ヶ月間に及ぶ被災地域の医療支援活動が行われた。また、同時に発生した福島第一原子力発電所事故に対しても臨機応変な状況判断によって、被災周辺地域より患者の後方搬送を行った。本稿では、東日本大震災に対し本学救急医学教室が行った活動を報告する。

    I. 急性期医療活動

    2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源として発生した本邦観測史上最大の地震は、震源から500km以上離れた東京にもまもなく到達し、震度5強の強い揺れをもたらした。ちょうど午後の面会時間と重なり、高度救命救急センター内には患者家族が多数見舞いに訪れていた。救命救急センター内は一時騒然とした状況となったが、スタッフは冷静に対応していた。揺れが治まるのを待ってICU内全入院患者の状態ならびに人工呼吸器をはじめとする各種生命維持装置の作動に異常のないことを確認するとともに、患者家族を安全な病院前ロータリーへと誘導した。尋常でない揺れからただならぬ事態であることを察したわれわれは、高度救命救急センター内に直ちに独自の対策本部を設置し、情報収集を開始すると共に、手分けをして院内および病院周辺に多数傷病者や家屋の損壊が発生していないかの確認に奔走した。また、広域災害救急医療情報システムEmergency Medical Information System(EMIS)にアクセスし、必要項目を入力した。同時に東北被災地への災害派遣を決定し、出動スタッフに医療資器材の準備および数日分の食料等の手配を依頼した。限られた情報と混沌とした状況の中ではあったが、日頃の病院前診療(ドクターカー活動)に対する迅速な対応やこれまでの災害派遣の経験を最大限に生かし、各スタッフは自らの役割を着実に遂行し、その後3ヶ月間におよぶ災害医療活動がスタートした。

    日本医大が行った院外での急性期医療活動は、九段会館天井崩落現場への東京DMAT派遣(付属病院高度救命救急センター)、町田市の大型商業施設駐車場倒壊現場への東京DMAT派遣(多摩永山病院救命救急センター)、東北被災地への日本DMAT派遣(付属病院高度救命救急センター、千葉北総病院救命救急センター)である。付属4病院ならびに関連施設救命救急センターでは、発災直後より独自の状況判断において各地にてきわめて迅速に災害急性期医療活動を開始していた。

    (1) 九段会館天井崩落現場

    15時25分、東京消防庁より九段会館天井崩落現場への東京DMAT派遣要請が入り、医師2名、救命救急士1名の計3名が東京DMATとしてドクターカーにて現場に出動した(写真1)。当日、現場では600人近くが参加した専門学校の卒業式が行われており、会場前方の天井が崩落したことにより多数の傷病者が発生していた。当院DMAT隊が到着した時には1次トリアージはすでに完了しており、同時に出場した東京医科歯科大学DMAT隊と協働し、重症患者を収容した赤・黄エリアでの2次トリアージを開始した(写真2)。赤タグ(重症患者)は計6名おり、心肺停止1名、フレイルチェスト等の多発外傷患者5名に対して全身観察ならびに必要な処置を行った後、当院を含む近隣救命救急センターへ搬送した。黄色タグ(中等傷病者)8名に対しても現場にて全身観察を行った後、重症患者に引き続いて近隣の2次救急病院へと搬送を開始した。緑タグ(軽症傷病者)は計22名おり、ケガの状態を観察した後、大型バスを使用して周辺の救急医療機関へと搬送を行い全傷病者の搬出を完了した。その後しばらくは、取り残された傷病者の可能性を考えて現場に待機をしていたが、新たな傷病者は認められず16時45分に現場を撤収して帰院した。

    写真1 九段会館内天井崩落現場

    写真1 九段会館内天井崩落現場

    写真2 九段会館前トリアージエリア

    写真2 九段会館前トリアージエリア

    (2) 東北地方被災地における日本DMAT活動

    Disaster Medical Assistance Team (DMAT) とは「災害急性期(48時間以内)に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム」である。1995年に発生した阪神淡路大震災での初期医療活動の遅れへの反省をもとに、災害時に一人でも多くの人を助けることを目的として2005年に日本DMATが組織された。今回の震災においては全国都道府県に所属する約340の日本DMATチーム、人数にして約1500名が広域災害救急医療情報システム (EMIS) などの情報をもとに、岩手・宮城・福島・茨城県に設置されたDMAT参集拠点に集結し、発災直後より病院支援や域内搬送、広域搬送を行った。各DMATチームは独自の車両を使用して陸路にて被災地をめざしたほか、空路、海路も利用された。関西・九州などの遠方からも多数のDMATチームが空路にて現地へ参集したが、これらは自衛隊の協力によるところが大きかった。

    今回の災害による被害の特徴は①人的被害では、地震そのものによる被害に比べて津波によるところが大きく、負傷者数に比べて死者・行方不明者数がきわめて多かったことである。東日本大震災による死者不明者に対する負傷者の割合は0.3(負傷者5,929人 : 死者不明者 19,996人,9月6日時点)であるのに比べて、阪神淡路大震災では6.8(負傷者43,792人: 死者不明者 6,437人)であり、他の過去の震災においても新潟県中越地震61(負傷者4,172人: 死者不明者68人)、新潟県中越沖地震156(負傷者2,436人: 死者不明者15人)と津波被害が生じなかった震災では死者不明者に比べて負傷者が多数発生するのに対し、津波による被害が発生したインドネシア・スマトラ島沖地震では0.46(負傷者130,000人: 死者不明者 280,000人)と死者数が負傷者数を上回る傾向がみられる。このような津波災害の特徴もあり、急性期救急医療を必要とする傷病者が地震直後から発災後48時の間に病院に押しかける事態は見られなかった。②もう一つの特徴は地震・津波による被害が北海道から関東に至る広範囲に及んだことである。被害が最も大きかった岩手県や宮城県沿岸の地域では拠点となる医療機関が少ない上に、病院自体が津波による直接被害を受けたところも多く、そのため一部の医療機関に患者が集中し、医療の需給バランスの崩れたエリアが発生した。この医療ニーズのアンバランスを解消することを目的に、日本DMATでは岩手および宮城の空港や自衛隊施設にStaging Care Unit(SCU)と呼ばれる広域搬送拠点臨時医療施設を立ち上げ、被災地域内で発生した重症患者を被災地外の医療リソースが潤沢な地域へと航空搬送する広域搬送という本邦初のミッションを行い一定の成果を得た。これにはSCUで活動したDMATはもとより、自衛隊ならびに全国から集結したドクターヘリが大きな役割を果たした。特に千葉北総病院救命救急センタースタッフは全国各地から集まった複数のドクターヘリを統括し、円滑に患者搬送を行うために尽力し、広域搬送の成功に貢献した。

    千駄木付属病院の日本DMAT隊は、11日16時40分に災害用にデザインされた多目的医療支援車(写真3)にて千駄木を出発した。災害用ドクターカーはこれまでの災害派遣での経験をもとに、テレビや衛星電話、FAX、パソコン等の通信機能を備え、独立した作戦指令室として機能が可能であるとともに、室内に宿泊用簡易ベッドを展開可能であり、災害現場で自己完結的に活動が行えるよう作成された日本で唯一の車両である。

    写真3 付属病院高度救命救急センターが誇る多目的医療支援車

    写真3 付属病院高度救命救急センターが誇る多目的医療支援車

    発災当日には、車内のテレビやインターネット・携帯電話を活用して情報を収集しつつ東北自動車道を北上した。テレビからは次々と東北の悲惨な現状が入り始め、車外の暗闇の中でただならぬ被害が生じていることを予感した。仙台市内は予想に反して大きな被害や混乱は無く、本学救急医学教室から昨年就任したばかりの久志本成樹教授が活躍している東北大学高度救命救急センターの状況を確認した後、同日深夜に宮城県DMAT 活動拠点本部となる仙台医療センターに到着した。DMAT本部では、懸命な情報収集作業が続いていたが東北全域の停電のために情報インフラが活用できず、断片的な情報は入ってくるものの地域の被害状況を把握することは困難であった。そのため1日目は夜間の活動を行わず待機となり、翌12日早朝より自衛隊霞目駐屯地にてSCUの展開を行うことが決定された。12日早朝より付属病院DMAT隊は霞目駐屯地に移動し、本邦初の広域搬送実施に向けSCUの設営・準備を開始した(写真4,5)。日中より孤立していた地域や避難所から被災した方々が次々とヘリ搬送されてくるようになり、中にはいまだ全身濡れたまま低体温症を生じていた方や火災に伴う熱傷の方も数人おり、医療テント内で処置を行った。前述した津波被害の特徴のためか発災翌日に広域搬送対象となる傷病者は多くなく、われわれの扱った骨盤骨折の傷病者を含む数名を広域搬送した。

    写真4 自衛隊霞目駐屯地内SCUに集結するDMAT

    写真4 自衛隊霞目駐屯地内SCUに集結するDMAT

    写真5 SCUテント内の仮設診療設備

    写真5 SCUテント内の仮設診療設備

    発災3日目(3月13日)までには数多くのDMAT隊が参集していたため、千駄木付属病院チームを二つに分け、1隊は引き続き日本DMAT隊として、もう1隊はエスティマドクターカーにて被災最前線の避難所を廻り医療ニーズを探る活動を行った。日本DMAT隊は、石巻赤十字病院および同地域の情報収集を目的として石巻への派遣が決定し、13日朝より被災の予想される海岸線沿いの道路を避け、内陸を迂回して石巻へと向かった。石巻赤十字病院(写真6)に収容された傷病者は発災後三日目までの段階で、重症(赤)80人、中等症(黄)100人、軽症(緑)500~600人、死亡(黒)30~40人であり、収集した被災地状況を仙台のDMAT本部へ報告した後、そのまま病院支援活動を開始した。日本医大DMAT隊は臨時診療エリアの中等症(黄色)および軽症(緑)を担当し、ヘリコプターにて搬送されてきた傷病者のトリアージおよび診察を行った(写真7)。その後、後続のDMAT部隊が到着してきたため、疲弊しきった現地医師の負荷を軽減すべく、夜間は臨時診療エリアすべてをDMAT部隊でカバーすることとした。日本医大DMAT隊は黄色ブースを担当し20名前後の黄色タグの患者を診察し、30~40人の黄色ブースの患者管理を行った。4日目になり、急性期のDMATのニーズは低下したと判断し、医療資器材の一部を現場に寄贈し宮城DMAT本部へ報告ののちに帰院した。

    写真6 石巻赤十字病院内

    写真6 石巻赤十字病院内

    写真7 石巻日赤トリアージテント内

    写真7 石巻日赤トリアージテント内

    (3) 多賀城市・七ヶ浜町医療救護活動

    発災3日目(3月13日)、日本DMAT隊から分かれた別部隊は、被災最前線に急性期医療を必要とする傷病者が情報通信の混乱によって取り残されている可能性があると判断し、医師3名救命士1名にて独自に情報収集を行いながら、被災最前線内の医療機関・避難所の巡回を行った。早朝より緊急消防援助隊本部や塩釜地区消防本部にて情報収集を開始(写真8)。多賀城市及び七が浜町の被害が甚大であり医療ニーズが高いとの情報を得て、現地の避難所・医療機関・道路情報を聴取した上で巡回の計画を作成した。塩釜消防署内では、津波警報にて避難してきた70歳女性が意識障害・ショックとなり、偶然居合わせたわれわれが初期対応を行い地域拠点病院に搬送した。多賀城市(人口6万人)、七が浜町(人口2万人)は津波の直接的な被害を受けており、市街地は発災後3日目の段階でもまだ水分を多く含んだヘドロが道を覆っている状態であった。隊はまず多賀城東小学校(収容人数約400人)から巡回を開始した。発災後、いまだ医療チームは介入しておらず、体調不良者23人を診察し、うちインスリンを紛失したために高血糖を来たしていた患者を拠点病院に紹介・搬送を行った。続いて,地域内の医療機関や老人福祉施設を巡回し、急性期医療の要する患者がいないことを確認した。医療機関の多くは津波被害のため診療不能の状況に陥っており、残った医薬品や経管栄養剤にて入院治療を継続していたが残りわずかの状態となっていた。その後、多賀城文化センター(収容人数600人)、多賀城市総合体育館(収容人数50人)を巡回したが、すでに医療介入が行われており数名の診察を行ったのちに移動した。続いて天真小学校に到着(写真9)。収容人数は1000人と多く、地元医師1名により診療が開始されていたが、全体を把握しきれない状況であった。小学校体育館および3階建て校舎内の全教室が避難者で埋め尽くされており、そのすべての部屋を訪問して体調不良の方がいないかを手分けをしてチェックした。クラッシュ症候群疑い1名、要透析者4名、他数名を診察し、うち2名を透析可能病院に救急搬送し、残り2名を翌日に搬送するようアレンジした。仙台医療センターDMAT本部に多賀城市・七が浜町の状況を報告し、発災3日目であるが避難所には透析患者や高齢者などの要救護者・災害弱者が多数おり、地元医師以外の医療チームが入っておらず地元医療者の疲弊が心配されること、避難所と外部との通信手段がなく要救護者の搬送に難渋していること等を伝えた。活動中、偶然にも詳細な情報をいただいた塩釜消防本部次長は山本保博救急医学名誉教授の知人であり、また天神小学校にて単身診療を行っていた地元医師は、以前日本医科大学高度救命救急センターにて筆者と共に仕事をした医師であり、日本医大救急医学教室のネットワークの強さを再確認させられた。

    写真8 塩釜消防本部にて情報収集

    写真8 塩釜消防本部にて情報収集

    写真9 天真小学校避難所

    写真9 天真小学校避難所

    II. 気仙沼医療支援

    日本医科大学では、東日本大震災被災地域の継続的な医療支援のため、東京都医師会・全日本病院協会の医療支援チームの一員として宮城県気仙沼市で活動を行った。活動期間は2011年3月17日から6月1日までであり、17隊にわたり67名(医師46名、看護師11名、薬剤師3名、臨床心理士1名)を派遣した。

    宮城県気仙沼市は、岩手県との県境にある太平洋に面した人口7万4千の港町である。本震では震度6弱を記録し、死者985名、行方不明者435名、住宅被災棟数10672棟、被災世帯数9500世帯と甚大な被害を受けた。津波で重油タンクが倒れて火が燃え広がり、港中を焼きつくし壊滅的な被害を受けた。

    医療支援チームの活動は、気仙沼市内に16か所の定点仮設診療所を開設することから開始し、徐々に30弱まで拡大した。千駄木付属病院チームは唐桑地区・中井公民館、多摩永山病院チームは同地区・唐桑公民館を担当した。唐桑町は太平洋に面した半島で(図1)、人口8841名、世帯数2252世帯であり、死者58名、行方不明54名、家屋流出550~600軒の被害を受けていた(4月5日現在)。

    図1 日本医大が診療を担当した唐桑半島

    図1 日本医大が診療を担当した唐桑半島

    千駄木付属病院チームの活動は1隊4泊5日で行った。1日目早朝に緊急車両登録をした車両で千駄木を出発し、東北自動車上を北上し気仙沼へ向かった。午後には気仙沼に到着し、前隊から引き継ぎを行った。医療対策本部、唐桑地区総合支所、中井公民館、巡回診療を行っている避難所や老人施設などを、一か所ずつ車で回り場所や仕事内容を確認した。宿泊地は、気仙沼から車で1時間半ほど離れた北上市や一関市であった。

    2日目から医療支援活動に入った。6時過ぎに宿泊地を出発し、8時から気仙沼医療対策本部でミーティングを行った(写真10)。地元機関および各チーム間の情報交換、薬品の補充などを行い唐桑地区総合支所へ移動した。9時から多摩永山病院チーム・奈良県医療チームとともに唐桑地区の状況や巡回診療する施設を確認した後、10時から中井公民館で定点診療を開始した。診察室は講堂の隅に卓球台を立て掛け、その上にビニールシートをかぶせて、8畳ほどのプライベートスペースを確保した。ベッドは机を並べてその上に毛布を掛けて作成し、毛布を丸めてタオルを巻いたものを枕として使用した。医療機材は、自動血圧計、体温計、舌圧子、酒精綿、血糖簡易測定キット、外傷キット、輸液セット、常備薬などである。途中、感染症の増加に対応するため血算測定器を持ち込んだ。午後からは避難所(写真11)や老人ホームの巡回診療を行った。16時には唐桑地区総合支所へ戻り活動報告を行い、17時から気仙沼医療対策本部で全体ミーティングを1時間半ほど行い、宿泊地へと帰った。3,4日目はほぼ同様のスケジュールで診療活動を行い、5日目に帰院した。

    写真10 第1陣にて地域医療対策本部統括をつとめた横田教授

    写真10 第1陣にて地域医療対策本部統括をつとめた横田教授

    写真11 避難所にて

    写真11 避難所にて

    全活動期間中726名の診療を行った(図2)。疾患の内訳はグラフ(図3)に示す通りであり、呼吸器疾患29%、循環器疾患17%、アレルギー疾患11%、消化器疾患8%の順に多かった。精神科疾患を主訴に訪れた患者は5%と少なかったが、震災そのものや居住環境の影響により不眠や抑うつ傾向を訴える患者は多数みられた。このため、第9陣(4月11日出発)から精神科の医師も加えたチーム構成とし、避難者をはじめ地元機関の方々のメンタルケアを開始した。第11陣(4月17日出発)からは疾患構成の変化に合わせて内科医師にも参加いただき、慢性期疾患への対応を行った。また、早期より薬剤部にも協力いただき、薬剤師同行時には支援物資として大量に届けられた薬剤の種分け・管理を行っていただいた。

    多摩永山病院チームは、千駄木付属病院チームと同じ唐桑地区を担当した。3月18日から4月13日まで活動を行い、2泊3日のサイクルで計9チーム派遣した。活動内容は千駄木付属病院チームとほぼ同様だが、2台のドクターカーを人員輸送用と現場活動用として用い、効果的なローテーションを行った。748名を診察し、以後は川口市立医療センターチームに引き継いだ。

    図2 千駄木付属病院診察患者数および疾患内訳

    図2 千駄木付属病院診察患者数および疾患内訳

    図3 気仙沼唐桑地区における診察患者の疾患別割合

    • 人員派遣:災害現場では医師、看護師、業務調整員が役割を分担することによってそれぞれの職能を最大限発揮できる。すべての職種が早期より派遣できるような院内のシステム構築が必要である。派遣スケジュールの早期作成により適切な人選・調整が可能となる。
    • 事前準備:活動マニュアルを作成し、出発前に活動内容・注意点を確認した。携行医療機器や薬品の管理が混乱した。災害種別に合わせた携行物品・薬剤の事前リスト化が望まれる。
    • 診療録・活動記録:今回は病院用災害カルテを持参し、同時に電子管理も行った。一人に複数のカルテが発生するなどカルテ管理に難渋した。他医療機関やかかりつけ医に情報が引き継がれるよう患者に診療録の複写を持たせる工夫をするなど、診療録記録および管理に関して改善が望まれる。また、今回は担当地域の疾患発生状況を地元機関にフィードバックが十分にできなかったなどの反省点が挙げられた。
    • 情報通信・情報共有:急性期にはほとんどの通信が不能となり、隊員間および千駄木本部との通信・情報共有に難渋した。多種類の通信手段、特に衛星携帯電話は必須であり、今後、衛星回線を用いたインターネット通信導入も含めて検討が望まれる。
    • 活動引き継ぎ:半日程度行動が重なるような時間をとったことは好評であった。前隊が次隊の予定をあらかじめアレンジするなど、より有効な活動が行える工夫が必要。
    • リスクマネージメント:隊員の保険・保障が問題点となったが、病院からの派遣であり原発以外では労災となる見込みであるとの回答を病院側よりいただいた。余震に対する対応や隊員のメンタルケアなど、今後より適切な対応方法の検討を要することが指摘された。移動に関しては、ドライバーの確保や車の保守点検が必要との意見が上がった。

    以上の課題に対しては日本医科大学付属病院災害対策委員会にて改善を行い、来る災害に備えて病院全体で更なる準備を継続していく予定である。

    III. 福島第一原子力発電所事故対応

    東日本大震災および津波災害に伴い、福島第一原子力発電所において水素爆発および放射性物質の外部放出が発生し、国際原子力事象評価尺度レベル7の原子力事故が発生した。

    3月11日19時に「原子力緊急事態宣言」が発表され、21時に半径3km以内の住民に避難指示が出された。翌12日、1号機水素爆発により避難指示範囲は20kmに拡大され、行政の主導のもと避難指示区域内の住民・入院患者は地域外へと移動した。さらに2~4号機の爆発も加わり15日には20~30km圏内の住民に屋内退避指示が出された。事故収束の見通しが立たないなかで地域住民は遠隔地へと避難を始め、30km圏外においてもあらゆる物資の流通が止まる事態が生じた。そのような中、3月15日に関係者より30km圏外の医療状況の窮状を伝える連絡が届いた(図4)。われわれの関連施設でもある地域の災害拠点病院を含む多くの医療機関が医療従事者の減少および医療物資の物流停滞により医療需給バランスが崩れ、病院機能が低下し深刻な状況に置かれていることを伝える内容であった。実際に3月15日の時点で同拠点病院には300名の入院患者がおり、うち40名が人工呼吸管理を要する重症患者であり、周辺医療機関の閉鎖により重症患者数はさらに増加していた。病院判断により若手職員は離院することになり、病院に留まった医師・看護師の数は平時の半分まで減少していた。原発事故がさらに拡大する可能性も考慮し、また残った職員への負担を軽減するため、われわれは入院重症患者の後方搬送が必要と判断した。翌16日、横田主任教授が関連拠点病院へ向かい、院長との協議の上同日中に搬出患者リストが作成された。この間、公的機関にも患者後方搬送協力を依頼したが、30km圏外であるために公的手段の投入は困難であった。17日より計15名の人工呼吸管理下の重症患者を当院関連8施設に後方搬送した。搬送には各関連施設の病院救急車を使用し、いわき消防および民間救急にも協力いただいた。実際に病院周辺の放射線量は高くないにもかかわらず、搬送用車両ならびにドライバーの手配にきわめて難渋した。この経験を基に、横田主任教授が中心となり日本救急医学会において「福島原発事故災害に対する後方搬送等についてのワーキンググループ」が立ち上がり、さらなる事故状況悪化に対応できるよう、民間レベルでの受け入れおよび後方搬送調整のためのシステムが構築された。

    また、日本DMATでは福島原発において多数傷病者・被爆汚染者発生ならびに原発作業員に傷病者が発生した場合に備えるため、4月末よりいわき市内にてDMAT隊の待機を開始した。この一環として付属病院DMAT隊は、6月6日から12日にかけて福島県広野町および田村市において、30km圏内への住民一時立ち入りに係わる医療活動を行った。一時立ち入りを行う住民一日あたり150~250人に対して問診および線量スクリーニングを行い、熱中症や動物咬傷、釘刺創などの傷病者発生時には診察・処置を行った(写真12)。

    図4 30km圏外の窮状を伝える連絡

    図4 30km圏外の窮状を伝える連絡

    写真12 線量スクリーニングエリア

    写真12 線量スクリーニングエリア

    まとめ

    日本医科大学では、東日本大震災発生直後より超急性期・急性期災害医療活動をいち早く開始し、引き続き3ヶ月間に及ぶ亜急性期・慢性期の医療支援活動を被災地において行った。また、福島第一原発事故に対しても起こりうる事態を想定し、適切な判断・対応を行うことができた。日頃の積極的な病院前救急診療ならびにこれまでの災害派遣の経験が、発災直後からの迅速な出動・臨機応変な活動につながった。一方、今回の活動から新たに浮き彫りとなった課題も多く認められた。今後、本災害から学んだ教訓を生かし、来るべき災害時にさらに効果的な活動ができるよう、個人の知識・技能・判断能力の向上、また救急医学教室・大学組織としてのシステム改善につなげていきたい。

    本震災対応にあたっては、救急医学教室関係者のみならず多くの診療科の医師・看護師・薬剤師・事務・学生の方々に献身的な協力をいただいた。今回の支援活動に係わったすべての皆様ならびに全学を挙げての対応を許可いただいた赫彰郎理事長、田尻孝学長・福永慶隆病院長に心より感謝申し上げます。

    最後に、未曾有の震災により被災された方々に心よりお見舞いを申し上げると共に、一日も早い復興ならびに原子力発電所事故の早期収束を願わざるを得ない。

    東関東大震災派遣メンバー

    派遣期間 氏名 所属
    九段会館天井崩落現場
    2011/3/11(金) 恩田 秀賢 救急医学
    大嶽 康介 救急医学
    岡田 知巳 東京消防庁委託研修生
    宮城県における日本DMAT活動
    2011/3/11(金)-3/14(月) 増野 智彦 救急医学
    渡邊 顕弘 救急医学
    小野寺 修一 救急医学(川口市立医療センター)
    周東 佑樹 研修医
    安藤 文彦 研修医
    芝田 匡史 研修医
    三橋 正典 東京消防庁委託研修生
    岡田 知巳 東京消防庁委託研修生
    気仙沼医療支援(付属病院)
    第1陣
    2011/3/17(木)-3/21(月)
    横田 裕行 救急医学
    布施 明 救急医学
    辻井 厚子 救急医学
    恩田 秀賢 救急医学
    若菜 繁 東京消防庁委託研修生
    三橋 正典 東京消防庁委託研修生
    第2陣
    2011/3/21(月)-3/24(木)
    畝本 恭子 救急医学(武蔵小杉)
    宮内 雅人 救急医学
    藤木 悠 研修医
    岡田 知己 東京消防庁委託研修生
    第3陣
    2011/3/24(木)-3/27(日)
    白石 振一郎 救急医学
    塩村 玲子 研修医
    第4陣
    2011/3/27(日)-3/31(木)
    金 史英 救急医学
    竹之下 尚子 救急医学
    加藤 あゆみ 薬剤部
    田邊 智英 医学部6年
    第5陣
    2011/3/30(水)-4/3(日)
    小野寺 修一 救急医学(川口市立医療センター)
    石川 若菜 救急医学(多摩永山)
    金子 貴久 研修医
    木野 毅彦 看護部
    第6陣
    2011/4/2(土)-4/6(水)
    松園 幸雅 救急医学(荒尾市民病院)
    片野 雄大 研修医
    西川 慈人 医学部6年
    第7陣
    2011/4/5(火)-4/9(土)
    渡邊 顕弘 救急医学
    山口 昌紘 研修医
    高木 和也 東京消防庁委託研修生
    吉田 羽奈 薬剤部
    第8陣
    2011/4/8(金)-4/12(火)
    川井 真 救急医学
    田中 俊尚 救急医学
    須﨑 真 総合診療科
    稲田 浩美 看護部
    第9陣
    2011/4/11(月)-4/15(金)
    林 励治 救急医学
    五十嵐 豊 救急医学
    河嶌 讓 精神科
    森 洵子 薬剤部
    第10陣
    2011/4/14(木)-4/18(月)
    齋藤 伸行 救急医学(千葉北総)
    上田 太一朗 研修医(千葉北総)
    江渕 慧悟 研修医(千葉北総)
    河嶌 讓 精神科
    渡辺 光子 看護部(千葉北総)
    山田 裕子 看護部(千葉北総)
    第11陣
    2011/4/17(日)-4/21(木)
    雨森 俊介 救急医学
    新福 摩弓 第3内科
    河嶌 讓 精神科
    佐々木 健太郎 看護部
    第12陣
    2011/4/20(水)-4/24(日)
    高野 仁司 第1内科
    池田 司 救急医学
    朝山 健太郎 精神科
    古澤 寿衣 看護部
    第13陣
    2011/4/23(土)-4/27(水)
    遠藤 広史 救急医学(武蔵小杉)
    桑原 広輔 研修医(武蔵小杉)
    川島 義高 臨床心理士
    門馬 治 看護部(武蔵小杉)
    第14陣
    2011/4/26(火)-4/30(土)
    高木 元 第1内科
    富永 直樹 研修医
    関根 瑞保 精神科
    山﨑 直人 看護部
    第15陣
    2011/5/11(水)-5/16(月)
    玉井 勇人 第3内科
    林 孝典 研修医
    伊与 恭子 看護部
    第16陣
    2011/5/15(日)-5/20(金)
    太良 修平 第1内科
    山本 良也 第1内科
    草谷 和代 看護部
    第17陣
    2011/5/23(月)-5/28(土)
    太田 好紀 救急医学
    宮吉 孝明 精神科
    鈴木 友真 研修医
    佐藤 トキ子 看護部
    第18陣
    2011/5/27(金)-6/1(水)
    石井 浩統 救急医学
    瀧口 徹 救急医学
    背戸 陽子 看護部
  • 医療支援報告①

    東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

    2011年3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測した。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害があった。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名した。死者10102名、安否不明者19,752名(3月26日、朝日新聞より)、被害の実態は未だ実態把握ができていない未曾有の大震災である。地震、津波、原発事故被害を総称して東北関東大震災や東日本大震災と呼称している。

    発災直後から医療支援活動を開始

    発災直後の3月11日、15時14分に東京消防庁より九段会館ホールの天井が崩落して多数の傷病者が発生していると通報を受け、日本医科大学付属病院高度救命救急センターから2名の医師が東京DMATとして現場で医療活動をした。また、日本医科大学多摩永山病院では町田市のスーパー駐車場が崩落し、同じく東京DMATとして現場で医療活動を展開した。

    さらに、発災2時間後の3月11日16時40分、高度救命救急センター医師を中心に(医師3名、救急救命士1名)日本DMATとして多目的医療支援車で東北自動車道を北上し日本DMATの集結地である仙台医療センターに向かった。

    【写真】現地で活躍する日本医科大学付属病院の多目的医療支援車

    途中、道路事情は必ずしも良好ではなかったが3月12日、午前0時12分に仙台医療センターに到着し、日本DMATとして被災者たちのトリアージや広域搬送への支援活動を行った。また、その後同チームの支援として同13日に医師2名、救急救命士1名が現地に急行した。

    さらに、福島第一原子力発電所の事故により職員の人的確保に苦慮している福島県いわき市の病院支援の一環として16日と17日に院内回診と17日から21日にかけて、入院患者計15名の後方搬送支援を行った。また、同17日からは東京都、東京都医師会、日本医師会、全日本病院協会の要請に基づいて気仙沼市の医療支援活動を開始した。

    日本医科大学付属病院、多摩永山病院、武蔵小杉病院の医療支援
  • 医療支援報告②

    1、 東京DMATとしての活動

    九段会館でのトリアージテント

    2011年3月11日14時46分頃に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。この地震により宮城県栗原市で震度7、宮城県、福島県、茨城県、栃木県で震度6強など広い範囲で強い揺れを観測した。また、太平洋沿岸を中心に高い津波を観測し、特に東北地方から関東地方の太平洋沿岸では大きな被害があった。気象庁はこの地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名した。死者10102名、安否不明者19,752名(3月26日、朝日新聞より)、被害の実態は未だ実態把握ができていない未曾有の大震災である。地震、津波、原発事故被害を総称して東北関東大震災や東日本大震災と呼称している。

    2、 日本DMATとしての活動

    1) 当日および翌日の活動

    発災直後の3月11日、15時14分に東京消防庁より九段会館ホールの天井が崩落して多数の傷病者が発生していると通報を受け、日本医科大学付属病院高度救命救急センターから2名の医師が東京DMATとして現場で医療活動をした。また、日本医科大学多摩永山病院では町田市のスーパー駐車場が崩落し、同じく東京DMATとして現場で医療活動を展開した。

    被災者の広域搬送を行う日本DMATの活動は自衛隊と共同で行う

    同12日朝7時より各地から参集した日本DMAT 20チームがミーティングを行い、日本医科大学DMATは本邦にて初めて実行に移される広域医療搬送の拠点となるSCU (Staging Care Unit : 航空機にて遠隔医療機関へ搬送される患者の全身状態を安定化させる仮設診療所)を自衛隊霞目駐屯地にて活動する役割を受けた。午前8時、霞目駐屯地に到着し、自衛隊テントを活用しSCUテント2張りを展開した。増野講師は1テントの責任者として現場のとりまとめを行った。サイト展開中にも霞目駐屯地には被災地より自衛隊ヘリコプターで次々と被災者が搬送されてきており、低体温症や熱傷患者数名に対して処置を行った。午後より広域医療搬送が開始され、挫滅症候群や多発外傷などの重症患者7名をSCUに収容し全身状態を安定化させた後、ドクターヘリを活用し県外医療機関へと搬送した。同12日夕、第2陣として出動した小野寺医師、安藤医師、柴田医師、三橋救急救命士が活動サイトへ合流した。

    2) その後の活動

    発災3日目は前日到着した第2陣を加えチーム再編成を行い、渡邊医師、小野寺医師、周東医師は、引き続き日本DMATとして活動を行った。日本医科大学隊は、朝のミーティングにて隣接都市にある石巻赤十字病院での活動することになり、多目的医療支援車にて現地に移動し、情報収集および病院支援を行った。石巻赤十字病院では3日目午前までに赤(重症)80名、黄色(中等症)100名、緑(軽傷)600名の患者が搬送されていた。発災3日目からは取り残された被災者達のヘリコプターを用いた搬送が本格化され、次々と石巻赤十字病院に運ばれていた。日本医科大学隊はトリアージの支援を行うこととし、渡邊医師、小野医師は黄色ブースを、周東は緑ブースのトリアージを翌朝まで続け、同14日朝DMATとしての活動を終了し、付属病院へ帰院した。

    避難所で巡回診療する増野講師(多賀城市避難所にて)

    一方、増野講師、安藤医師、柴田医師は被災現場を視察、および巡回診療を行った。発災3日目3月13日朝6時より地元消防署、緊急消防援助隊、警察本部等より被害の大きい地域に関する情報収集を開始し、活動場所を塩釜市と設定し、塩釜消防本部へと向かった。塩釜消防到着時、津波警報のため消防署へ避難していた70代女性が突然の昏睡状態となったが、安藤医師、柴田医師の迅速適切な処置により意識回復、現地の医療機関へと搬送した。塩釜消防署にて、多賀城市および七ヶ浜地区の被害が大きく、医療支援が行われていないとの情報を得て、まず多賀城市東小学校避難所を巡回した。体調不良の23人を診察し、災害のため降圧薬を紛失してしまった被災者の血圧測定や糖尿病のインスリンコントロールが困難になっている被災者に対する指導を行い、インスリンが流され高血糖状態となっている患者を問診および血糖値測定より見つけ出し、拠点病院へと紹介搬送した。その後、津波被災地に入り、被害を受けた医療機関および老人福祉施設を巡回したが、入院患者は残されていたものの重症患者はいなかった。これらの医療機関では医療資材が枯渇寸前であるとの情報を得て、後に情報を本部へとフィードバックした。住民情報より避難民が天真小学校避難所にまとまっている都の譲歩を得て同避難所を巡回した。体育館および小学校教室に1000人以上の方が避難していた。同避難所では日本医科大学救命救急センターで研修を受けた地元医師が看護師3名とともに活動を行っており、日本医科大学救護班はその支援を開始した。3階建て40以上の各教室を巡回し、透析の必要な患者計4名を後方搬送のアレンジを行い。津波災害により外傷を負った患者の処置を行った。夕刻まで活動を行い、翌14日に帰院した。

  • 医療支援報告③

    気仙沼市医療支援活動

    2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に対し東京都、東京都医師会、日本医師会、全日本病院協会は宮城県気仙沼市で医療支援活動を開始した。日本医科大学チームは17日夕方に気仙沼市立病院に到着し、翌18日から同市の医療支援活動を開始した。日本医科大学チームは救急医学教室の医師を中心に付属病院、多摩永山病院、武蔵小杉病院の医療スタッフが分担して活動を行っている。

    1)気仙沼市の状況

    医療チームの拠点となった気仙沼市立病院

    本震災における気仙沼市の人的被害は死者533名で(3月26日、朝日新聞より)、津波後に発生した火災は街の中心部を中心に内の脇地区、鹿折地区は鎮圧、気仙沼大島の山林、大浦地区の山林は鎮火に至っていった。市内に多数の避難所が設置されたが、3月17日には約1.9万人が市内94か所の避難所で生活している状態であった。

    震災直後の危機的医療体制は気仙沼市立病院を拠点として徐々に回復しつつあるが、未だ水道・ガス・電気・携帯電話回線などのライフラインが寸断され、さらにガソリンなどの燃料入手が困難な状況であるため、3月26日現在も十分とは言い難い状況が続いている。

    2)日本医科大学の活動

    医療チーム同士のミーティング(中央:横田教授)

    日本医科大学の気仙沼市医療支援チームは第1陣が横田教授、布施講師、辻井病院講師、恩田助教の4名の医師と2名の救命士で構成した。尚、横田教授と恩田助教は16日、いわき市の病院に医療支援に入っていたため、17日夕方に気仙沼市立病院で合流した。同市立病院には都立病院チーム、東京都医師会チーム、全日本病院協会チームが既に活動を開始していた。我々日本医科大学チームは18日から気仙沼市の避難所で巡回診療を開始した。その後、18日には多摩永山病院救命救急センターの二宮病院教授、苛原助教、前田看護師、鈴木大学院生が到着し、19日から診療を開始した。

    当初は避難所の状況が完全に把握されていない状態であり、気仙沼市の避難所全体を把握すること、その医療ニーズを探ることとし、巡回診療方式とした。20日には104か所に増加した避難所、約1.7万人の避難者の状況をほぼ把握した。また、市立病院に集積された医療用品(医薬品、衛生用品など)を各診療チームに支給することができた。21日からは気仙沼医師会の要請に基づき、避難者数約1000名毎に一つの医療救護所を16か所設置し、診療活動を開始した。

    情報収集(左:二宮教授)

    ① 巡回診療

    避難所近接の公民館で情報収集をする辻井講師(右)、布施講師、恩田助教、苛原助教(左)

    3月18日には96か所避難所、約1.9万人の避難者がおり(20日には104か所の避難所、約1.7万人の避難者)、医療ニーズの確認を含め巡回診療を行った。日本医科大学チームは千駄木チームと永山チームの2班に分かれ、唐桑地区、唐桑崎浜地区を中心に避難所16か所(避難者数 1500名程度)を巡回した。避難所は、暖をとる手段がないところもあり、毛布、米、水などの優先度の高い支援物質は届けられ始めていたが、生活必需品などがまだいきわたっていない状態であった。

    日本医科大学チーム(千駄木、永山の2班)の巡回診療では一日約50人前後の避難者の診療を行った。内容は震災・津波に受傷した外傷処置、慢性疾患(高血圧、糖尿病、脂質代謝異常症、循環器疾患など)の診察や感染症対策指導であった。

    このような情報を各医療班で午後5時から市立病院で行われるミーティングに持ち帰り、衛生・医療品を救護所へ搬入する任務も行った。日本医科大学が担当した地域は気仙沼市でも北側の山を越えた区域のため、ライフラインの復旧はなされず孤立している状態であった。地域の保健師とコンタクトを取りながら、医療が必要な人のトリアージ、応急診療、さらに避難所生活での注意点、衛生管理なども周知して巡回した。

    尚、横田教授は19日から気仙沼医療支援チームのリーダとなったため、19日からは巡回診療や医療救護所での診療には参加せず、医療本部に常駐し、チーム全体の活動調整を行った。

    ② 医療救護所での診療

    医療救護所で診療活動準備(右:畝本講師、左:宮内講師)

    3月20日から定点の医療救護所を拠点を設置して医療支援を行う要請が気仙沼医師会よりあり、巡回診療で収集した情報をもとに気仙沼市で計16か所の医療救護所を設置した。そのため、3月20日から21日にかけて、医療支援を巡回診療から定点医療救護所診療に順次切り替えた。自ら移動できない患者については必要に応じて巡回診療も行うこととした。日本医科大学チームは、引き続き2班に分かれ唐桑地区の二つの公民館(中井公民館、唐桑公民館)に定点救護所を立ち上げた。22日午後、日本医科大学チーム二次隊(畝本講師、宮内講師、藤木付属病院初期研修医、岡田救命士)に業務を引き継いだ。

    ③ 検視・検案

    多くの死者・行方不明者をかかえ、現在も多数の遺体が発見されている。検視・検案に関しては気仙沼医師会から医師を派遣していたが、医師の確保や医師の疲弊もあり、医療支援チームからの必要に応じて応援をすることになった。一日で30体~80体近くの検案を行う状況であった。2名の検視・検案医の要望があり、気仙沼医療支援チームの代表として日本医科大学からは布施講師が参加した。

    ④ 診療実績(3月18日~21日)

    3月18日~21日で千駄木チームと永山チームで計171名の避難者の診療を行った。疾患別内訳は下図のようで、循環器疾患(38名、内高血圧27名)、呼吸器疾患(31名、内上気道感染症29名)、消化器疾患(27名、内便秘症23名)が多く、外傷は6名と小数であった。

    千駄木チームと永山チームの診療した疾患別合計患者数(3月18日~21日)

    千駄木チームと永山チームの診療した疾患別合計患者数(3月18日~21日)

    写真2 千駄木チームと永山チームが診療した疾患別患者数(3月18日~21日)

    千駄木チームと永山チームが診療した疾患別患者数(3月18日~21日)

    上記の結果から、今後の医療支援は循環器、消化器、感染症、精神科医療の提供を考慮した対応を考慮すべきである。また、老年内科や小児科、女性診療科・産科を専門とした医師の支援、看護師、薬剤師など幅の広い医療支援が必要と考える。

    気仙沼市周辺の地図と日本医科大学が担当した唐桑地区

    気仙沼市の医療支援は東京都、東京都医師会、日本医師会、全日本病院協会が共同で行っている。日本医科大学救急医学教室は引き続き被災地への医療支援を行う予定であるが、具体的には下表のように3泊4日での医療支援チームを交代で派遣している。一方、東京都は引き続き中・長期的な医療支援の意向があり、付属病院や多摩永山病院にも協力要請が来ている。このように、本学の医療支援体制は付属病院高度救命救急センターが窓口になって対応しているが、今後は各付属病院、医学部、同窓会組織など全学的な医療支援体制を構築する必要性があると考えている。

  • 医療支援報告④

    日本医科大学付属病院が誇る多目的医療支援車

    東北関東大震災当日の日本 DMAT としてのミッションと気仙沼市医療支援チームの第 1 陣、 2 陣で大活躍した多目的医療支援車の装備と内部を紹介する。多目的医療支援車は災害およ びテロ(核物質、生物兵器、化学兵器)における医療支援活動の際、最前線で医療指揮所として機能させることを目的とした車両で、除染設備、防護設備、通信設備、宿泊設備などを有する。

    車両側面に収納式ルーフが内蔵されており雨天でも屋外指揮活動が可能な構造となっている。内部にはコピー機、テレビ、通信設備を有した司令室の設置が可能である。自炊・宿泊装備もあり、被災地で中・長期の医療支援にも対応可能である。今回の震災・津波災害医療支援では、車載テレビで情報収集、 車載電話にて情報伝達を行いながら移動、到着後は 指揮所兼宿泊設備として活躍したが、これらの機能は現地の資器材を使用せずに完全独立で可能である 。

    車両外観(屋外指揮所),車両内部(左下はコピー機兼FAX),車両内部(司令塔)

    除染設備は組み立て式で、歩行可能な患者の除染設備、歩行 不可能な患者の除染設備が備わっている。シャワー用の水は除 染車両に搭載されている200Lのタンクおよび水道から補給されるが、加温可能であるため温水での除染が可能である。 作業者の背中に装着されている黒い機器にフィルターを 装着し送気することで防護服内が陽圧となり、各種毒劇物に汚染された環境下でもクリー ンな空気下での作業が可能である。

    除染設備(右下は温水器),除染設備全景(右下は温水器),防護服を装着しての除染風景,担送患者用設備

    気仙沼市医療支援活動

    2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に対し東京都、東京都医師会、日本医師会、全日本病院協会は宮城県気仙沼市で医療支援活動を開始し、日本医科大学チームは18日から同市の医療支援活動を開始し、3泊4日のローテンションにて診療活動を行っている。また、日本医科大学チームは救急医学教室の医師を中心に付属病院、多摩永山病院、武蔵小杉病院の様々な医療スタッフが分担して活動を行っている。3月31日現在、第5陣が活躍中であるが、第3陣までの診療状況について記載する。

    1)気仙沼市の近況

    水道・ガス・電気・携帯電話回線などのライフラインは徐々に回復してきており、半島部である唐桑地区においても電気以外のライフラインは部分的に稼働し始めている。ガソリンの流通は徐々に回復してきているが、入手は依然として困難な状況でありスタンド前の車列にて早朝から渋滞が起きている。緊急車両は時間帯を決めて優先的に給油可能である。

    2)日本医科大学の活動

    当初は避難所の状況が完全に把握されていない状態であり、気仙沼市の避難所全体を把握すること、その医療ニーズを探ることとし、巡回診療方式とした。20日には104か所に増加した避難所、約1.7万人の避難者の状況をほぼ把握した。また、市立病院に集積された医療用品(医薬品、衛生用品など)を各診療チームに支給することができた。21日からは気仙沼医師会の要請に基づき、避難者数約1000名毎に一つの医療救護所を16か所設置し、診療活動を開始した。

    また、多摩永山病院チームも二宮教授、久野講師、苛原助教、鈴木大学院生をはじめ、看護部の協力のもとに上記千駄木チームを共同で医療支援を行っている。

    活動地域内の有床診療所である小野医院(菊池医師)も診療を開始し、慢性期疾患に対する診療、処方が可能とのことで定点救護所の受診者は減少傾向にあったため、第3陣は午前中に中井公民館での定点診療、午後巡回診療という診療形態をとった。

    なお、数名の精神科医が気仙沼市医療支援チームに参加していたが、移動手段のない個別参加医師が多いため、25日朝の本部でのミーティングで移動手段に余裕のあるチームに挙手制で配属されることとなった。日本医科大学チームにも、都立小児医療センター所属の澤谷医師(4月より日本医科大学付属病院精神神経科)が配属され、災害医療支援において精神科医師とのコラボレーションを行った。

    ① 巡回診療

    日本医科大学チームの巡回診療では一日約15人前後の避難者の診療を行った。内容は周辺避難所内では慢性疾患(高血圧、糖尿病、脂質代謝異常症、循環器疾患など)の診察や感染症対策指導など第2陣とほぼ同様であったが、外傷が減少した一方で、施設内での発熱患者、在宅高齢者の褥瘡観察・処置・指導が急増する傾向にあった。また高齢避難者に不穏、不眠、昼夜逆転など共同避難生活の支障となる症状が出現し始めていた。

    • 施設内でのインフルエンザの流行は非常に問題となるため、38度以上の発熱患者に対しては鼻咽頭ぬぐい液によるインフルエンザ検査を施行し、陰性であっても疑わしい症例に対しては個人のスペースを設けるなどのアドバイスをした。
    • 在宅の訪問に関しては、三陸地方の半島地区の地理的な特性から急峻で狭い坂道が多く自宅前まで普通自動車で近寄れないことがあり、徒歩で自宅を探しながらの診療となる。よって一人当たりに要する時間が長くなる傾向にあった。このような在宅患者の情報は午前9時から唐桑総合支所内で行われる地域保健師とのミーティングで得られる。特に、24日〜27日に北海道からの保健師の応援チームが同地域で各家庭を一軒一軒訪問するローラー作戦を展開しており、一日に3〜4人の往診依頼を受けた。診察した内容は午後5時から気仙沼市健康促進センターすこやかで行われるミーティングに持ち帰り、衛生・医療品を救護所、各家庭へ搬入する任務も行った。特に介助能力に問題があり、濃厚な介入が必要な場合には、発足したばかりの在宅医療支援チームへの引き継ぎを行った。
    • 不眠、不穏などの症状が強い患者に対しては同行した精神科澤谷医師の処方により対処した。また組織されつつある精神科チームに引き継ぎを行い、週2回程度の巡回を行ってもらうこととした。

    ② 中井公民館内医療救護所での診療

    25日から27日まで中井公民館に常設された医療救護所で、避難者および周辺住民の診療を行った。医師1名、研修医1名の二人のチームであったが、受診者数は減少傾向にあり特に混雑、混乱当はなかった。上気道症状、発熱、処方薬切れ、血圧測定目的がほとんどであるが、不眠、頭痛、倦怠感、余震の度に不安を覚えるなどの急性ストレス反応に伴う症状も散見され、精神科澤谷医師への診療を依頼した。

    ③ 診療実績

    第1陣から第3陣までの診療実績を下図に示す。それぞれ特徴は異なるが、循環器、呼吸器、消化器疾患が多い傾向を認めている。

    第1陣~第3陣の疾患別患者数
    第1陣~第3陣の疾患別割合

    同期間での多摩永山病院チームの診療実績は以上である。

    多摩永山病院チームの疾患別割合(3.17~3.27)
  • 医療支援報告⑤

    Doctor Car NINO

    東北関東大震災の気仙沼市医療支援て大活躍している日本医科大学多摩永山病院の「Doctor Car NINO」の装備と内部を紹介する。「NINO」イタリア語で「小さい」という意味であり、その名の通り軽自動車でコンパクトな構造で、安価、機能性を目的にして日本医科大学多摩永山病院の二宮教授を中心とする救命救急センタースタッフが開発した。患者の搬送は想定しておらず、救急現場に医師が急行し、救命処置を施すドクターカーである。

    東京都、特に多摩地域の道路事情に合わせ、小回りが利くタイプの軽ワゴンがベースとなっている。両側のドアがスライド式になっているため、狭い場所でも両方から降車できる。車両後部にマグネット式のコンセントがあり、エンジンがかかっていなくても、内部の医療機器が充電できる構造となっている。また、車両内部の吸引器・カーナビは自動で充電が可能である。緊急時には助手席と後部座席を倒すことで、緊急時は担架を1台固定することが可能である。被災地では、瓦礫で道路が寸断されている場所であっても、ぎりぎりの所まで進入ができ、非常に有用で大活躍をしている。

    Doctor Car NINO

    疾患別患者数/割合(千駄木チーム)

    第1陣~第3陣の疾患別患者数(千駄木チーム)
    第1陣〜第4陣の疾患別割合(千駄木チーム)

    疾患別割合の推移(永山チーム)

    第1陣〜第4陣の疾患別割合の推移(永山チーム)
    疾患別割合(永山チーム、3/19~4/2)
  • 医療支援報告⑥
    日本医科大学付属病院、多摩永山病院、武蔵小杉病院、千葉北総病院

    第1陣~第11陣までの疾患別患者数/割合

    第1陣~第11陣までの疾患別患者数
    第1陣~第11陣までの疾患別患者割合

    第1陣から第11陣までの疾患別患者数と割合に関して本学6年生の田邊智英君が集計をしてくれました。田邊智英君は第4陣にも参加し、日本医科大学チームのロジスチックスとして活躍しました。

    診療した患者数は次第に減少傾向であることがわかります。また、疾患別患者割合では第7陣でアレルギー疾患が一時的に増加しましたが、分類が困難なその他の疾患が増加している傾向がうかがえます。身体疾患の治療を中心とした医療支援から、長期避難所生活から生じる多様な症状に対応する医療支援体制を考慮すべき結果と考えます。また、引き続き呼吸器系の疾患割合が高く、集団生活での感染予防に留意すべきと考えます。

  • 千葉北総病院活動報告

    東北地方太平洋沖地震に関するDMATチームの活動について

    平成23年3月11日(金)に発生した東北太平洋沖地震により、被災された皆様に対し、心よりお見舞い申し上げます。また、一日も早い生活の安全と復旧を願って止みません。
    当院といたしましても、出来る限りの支援をさせていただく所存でおりますが、現時点での活動概要を次のとおりご報告いたします。

    DMATチーム活動概要

    災害医療支援のため、当院から災害医療支援チーム(DMAT)を2隊派遣しました。

    第1隊: ドクターヘリで出動し、現地で第2隊と合流後、ラピッドカーで帰院
    医師2名、看護師2名
    期 間 2011.3.11~2011.3.13
    福島県立医科大学を中心に活動
    第2隊: ラピッドカーで出動し、現地で第1隊と合流後、ドクターヘリで帰院
    医師2名、看護師2名、事務員1名
    期 間 2011.3.13~2011.3.15
    福島県立医科大学を中心に、石巻市立病院、石巻市総合運動公園において活動
  • Northern Japan Earthquake

    Medical relief activities for ‘The 2011 off the Pacific coast
    of Tohoku Earthquake’ by Nippon Medical School (Ver. 2)

    Department of Emergency and Critical Care Medicine, Nippon Medical School

    The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake
    On March 11, 2011 at 14:46, a magnitude 9.0 earthquake occurred off the coast of Honshu, Japan. The epicenter was located 130 km offshore of Sanriku. The quake registered a 7 on the Japanese Seismic Intensity scale in Kuribara city in Miyagi prefecture and a 6 over wide areas of Miyagi, Fukushima, Ibaraki, and Tochigi prefectures. The quake was followed by a powerful tsunami that hit the east coast and caused extensive damage to the Tohoku and Kanto regions. The Japanese Meteorological Agency named this earthquake‘The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake’. The exact extent of damage is still being assessed, and as of March 31, 2011, the death toll was up to 10977 with 12994 still missing and 3031 injured (Ministry of Internal affairs). In Japan, the mass media are using the term “Higashi-Nihon Daishinsai (East Japan big earthquake) to describe this catastrophic event.

    Our medical relief activities for the earthquake, tsunami, and nuclear accident
    < Summary >
    Here we provide an account of our medical relief activities from the onset of the disaster (Fig. 1).

    Fig.1.Medical relief activities of Nippon Medical School

    First, our Disaster Medical Assistance Team (DMAT) was deployed as the Tokyo DMAT to Kudan Kaikan, where the ceiling of a hall with an 1112 capacity had partially collapsed as a result of the earthquake. Two hours after the onset, our medical team was deployed to Miyagi as part of the Japan DMAT (J-DMAT), and the rendezvous point was set at Sendai Medical Center. We arrived at 0:12 on March 12 and established a Staging Care Unit (SCU) in the Kasuminome Fort of the Japan Self Defense Force (JSDF) using our multi-purpose medical vehicle (Fig. 2). From this point, a wide-area medical evacuation was performed.

    Fig.2.Multi-purpose medical vehicle of Nippon Medical School

    We recruited members of the Nippon Medical School (NMS) team from Tokyo the following day and continued our J-DMAT activities, while another NMS team conducted medical rounds and evaluated medical needs in the affected areas of Shiogama and Tagajyo. We concluded our mission in the superacute phase of the disaster on Mar 14.

    From March 17, we began medical rounds at a refuge in Kesennuma, Miyagi, while in the vast Tokyo Metropolis, the Japan Medical Association and the All Japan Hospital Association continued to provide medical relief.

    Fig.3.Triage at Kudan Kaikan, Tokyo

    < As a Tokyo-DMAT >
    Our Disaster Medical Assistance Team (DMAT) was deployed as the Tokyo -DMAT to Kudan Kaikan, where the ceiling of a hall with an 1112 capacity had partially collapsed as a result of the earthquake. Triage was immediately performed at the scene (Fig. 3), and one severely injured victim was transported to our hospital. At the same time, another team of our DMATs was deployed from NMS Tamanagayama hospital to a shopping center in Machida, Tokyo, where a parkade had collapsed.

    < As a Japan-DMAT >
    A wide, muddy stream was seen moving rapidly across a residential area near Natori River in Miyagi on live NHK TV. The tsunami also reached Sendai airport, submerging the runway. Every staff, who experienced medical relief activities of Sumatra earthquake Indian Ocean tsunami, assumed this earthquake and tsunami to be same, or worse. Two hours after the onset, our medical team was deployed to Miyagi as part of the Japan DMAT (J-DMAT), using our multi-purpose medical vehicle. The rendezvous point of J-DMAT was set at Sendai Medical Center, where local J-DMAT headquarter in Miyagi was established. We arrived at 0:12 on March 12, which was the fastest of all DMATs of metropolitan area.

    Fig.4.Multi-purpose medical vehicle was anchored as the headquarter of SCU in Kasuminome Fort.

    However, we could not start medical relief activities because no information reached local headquarter due to completely damaged infrastructure of information. Early next morning, 20 of J-DMAT had a meeting together and decided to establish a Staging Care Unit (SCU) in the Kasuminome Fort of the Japan Self Defense Force (JSDF) (Fig. 4), which became the first time to manage SCU in Japan where wide-area medical evacuation was performed. We received patients of hypothermia, burn, multiple trauma, crush syndrome, and etc. from disaster base hospital, on-site to SCU by JSDF helicopter. We managed the patients in SCU, and transported them to hospitals of non-suffered area by ‘Doctor Heli’. The following day, we recruited members of the NMS team from Tokyo and continued our J-DMAT activities, and supported Ishinomaki red-cross hospital, one of disaster base hospital. 80 patients of Red category (immediate), 100 of Yellow category (delayed), and 600 of Green category (minor) were admitted there until the 3rd day of the onset.

    In addition to that, many rescued casualties isolated by tsunami were transferred by helicopters of JSDF, Fire department, and etc. Our teams supported Ishinomaki red-cross hospital, and triaged new coming patients until next day, March 14, while another NMS team conducted medical rounds and evaluated medical needs in the affected areas of Shiogama and Tagajyo as a medical team of the All Japan Hospital Association. They left Local Medical Headquarter of Miyagi at 6am, then headed for headquarter of Fire department in Shiogama. There, they received information that Tagajyo city and Shichigahama coast were severely damaged without any medical support.

    Fig.5.Medical rounds in refugee at Tagajyo

    In medical rounds, we triaged more than 1000 patients (Fig.5), and 4 patients were evacuated because they needed urgent hemodialysis. One patient was transferred to a strong base hospital because of hyperglycemia. In medical rounds of hospitals, clinics, and nursing homes, we did not find severely damaged patients.


     We concluded our mission in the superacute phase of the disaster on Mar 14.

    Fig.6.Medical Headquarter onsite, Kesennuma city hospital

    < Medical Support for Kesennuma >
    From March 17, we began medical rounds at a refuge in Kesennuma, Miyagi, while in the vast Tokyo Metropolis, the Japan Medical Association and the All Japan Hospital Association continued to provide medical relief.  This earthquake and tsunami severely damaged Kesennuma, killing 678 people. 1521 are still missing (Ministry of Internal affairs). The fire after tsunami burned central of Kesennuma, Uchinowaki and Shishiori area. More than 19,000 residents escaped to refuge. The refuge had no electricity, water supply, gas, or information network on March 17. Moreover, no supply of gasoline had interfered recovery from the catastrophe. Kesennuma city hospital continued to receive patients of emergency, but all outpatient clinics were closed.

    Our medical team had meeting with other medical team, mainly from Tokyo metropolis at Kesennuma city hospital, and analyzed medical needs in Kesennuma city. However, since we could not grasp the needs completely, we decided to divide medical rounds of refugees and our team covered refugees of Karakuwa peninsula from the next day, March 18, where there were around 1500 refugees in sixteen points. Our team was the first team to come in that peninsula after the catastrophe, and took care of fifty patients on average every day in refugee. Patients included wound infection, co-existing diseases like hypertension, diabetes, and cardiac disease. We also searched for basic life needs and health conditions, especially from the view point of prevention of infection. Professor Yokota of NMS was nominated to be the leader of medical relief teams in Kesennuma, and conducted our operation as a whole (Fig.6). Other important mission was postmortem examination, and one of our staffs joined Police teams, on behalf of local doctors.

    Fig.7.Inside field clinic at Nakai public hall in Larakuwa penisula, Kesennuma

     We grasped the situation of refugee in 104 points until March 20, and established 16 field clinics, covering 1,000 refugees in each clinic. The content of medical relief activities were changed from medical rounds to care at field clinics. This scheme was requested from Japan Medical Association in Kesennuma city.

     In Karakuwa peninsula, two field clinics were established in Nakai and Karakuwa pubic hall (Fig.7). We continued to provide medical relief activities at the area (Table 1).

    Table 1.Time course of prevalence of diseases in refugee
    Proportion of patients' disease in refuge

    < Medical Support for Iwaki >
    With regard to the Fukushima I Nuclear Power Plant accident, because sufficient medical resources were not readily available in Iwaki city, Fukushima, our NMS team supported the Iwaki Kyoritsu Hospital and evacuated 15 patients to Tokyo from March 17 to March 21.

    Acknowledgement
    Our gratitude extends to the following at Nippon Medical School: Professor Emeritus Akiro Terashi, Governor, Professor Emeritus Takashi Tajiri, President, Professor Yoshitaka Fukunaga, Director, Hiroshi Koyama, Secretary-general, Shiro Katayama, Manager of the pharmaceutical section at the hospital, and all other colleagues for their invaluable assistance and support during our mission.

    Corresponding Author:
    Akira Fuse, M.D., Ph.D.
    Dept. of Emergency and Critical Care Medicine
    Nippon Medical School
    1-1-5 Sendagi, Bunkyo-ku Tokyo,
    113-8603 Japan
    Tel: +81-3-3822-2131 (Ext. 6804)
    Fax: +81-3-3821-5102
    E-mail: fuse@nms.ac.jp

    An additional report by Dr. Gautam A. Deshpande who joined NMS DMAT and helped medical relief activities.

  • An additional report

    A report by Dr. Gautam A. Deshpande who joined NMS DMAT and helped medical relief activities.

    After the March 11, 2011 earthquake and tsunami, everyone living in Japan had a powerful internal longing to help those affected in the northeastern area of Tohoku. The many gaikokujin (foreigners) who have made their home in Japan were no different—we wanted to help. However, with resources limited and lines of communication strained to the breaking point, it was difficult to find opportunities to provide needed assistance and, as is always the case, many of us were all-too cognizant of the fact that we posed as high a risk for getting underfoot as helping out.

    As a physician for the US Embassy and St. Luke’s International Hospital here in Tokyo, I felt a profound and deep sense of “calling” to provide medical assistance to the stricken areas. After numerous phone calls to various agencies and organizations, I was put in contact through an Embassy colleague with Dr. Akira Fuse of Nippon Medical School (NMS). Dr. Fuse is an emergency medicine physician and a key member of the NMS DMAT—Disaster Medical Assistance Team. Viewing our involvement as a good chance for us, a good chance for NMS, and good chance for the people of Tohoku to see that the whole world was rallying to support them, he graciously invited my team to join the NMS DMAT. We planned to meet up with them in the ravaged city of Kesennuma, one of the hardest-hit cities in Miyagi Prefecture and directly in the tsunami’s path of destruction.

    I had put together a 4-person team for the trip. In addition to myself, Dr. Tom Lomax—a British physicians from Tokyo Medical Surgical Clinic—was joining us. Tom speaks great Japanese and has a background in Emergency Medicine. Also with us was one of my former Medical English students, Kay, who has a small clinic focusing on therapeutic bodywork. Kay was indispensable as both a language facilitator and as a therapist; she did some of the best work of the trip, offering much-appreciated backrubs and hand massages to evacuees. Finally, Mr. Onodera, one of the Embassy’s drivers, volunteered to drive us up—he is from Tohoku and felt a deep personal connection to the area. Taking time off from our respective jobs, we set out from Tokyo, unsure of what to expect.

    We arrived in Kesennuma early and joined up with the NMS team at Kesennuma City Citizen’s Health Facility, where the daily morning DMAT meeting was going on. I stood in the back of the room, looking in stunned silence at the 100 doctors from around the country that had assembled there. I saw jackets from Kyushu, from my wife’s home prefecture of Ehime, from Kansai, from the Japan Sea coast, from Hokkaido, from Kanto. Everyone—doctors, nurses, pharmacists, health volunteers—had come together for a common goal and purpose. It was awesome. It was like standing in the back of the Hall of Justice, watching the Legion of Superheroes having their morning meeting. What moved me immensely was that Tohoku had called for help and all of Japan had answered that call.

    After the business of the morning meeting—updating teams on ongoing needs, new situations, reshuffling territories, welcoming new colleagues, and saying goodbye to departing ones—the teams were divided up into subsections, each leaving the central meeting point to have smaller meetings of 3-4 teams in the suburbs of Kesennuma. We went to a small city hall about 20 minutes outside Kesennuma City and met up with the other teams. At this hub, we divvyed up coverage of the surrounding hinanjo (evacuation centers) and nursing homes and set forth. Before we did, we met a psychiatry team—one doctor and one nurse—from Hokkaido, who had set up base-camp at the hub and would be fielding all the mental health needs from this location. I admired them for being there, but I wondered if it would be enough.

    My team and the NMS group left the city hall and headed to the main hinanjo under our a care, a relatively large facility inside a community center. It was housing about 60-70 evacuees. A small, military-style bivouac had been set up in the gymnasium to serve as the medical clinic. I was struck by how many medicines we had, all stacked up behind the doctor’s desk. As we entered the facility, the volunteers were smiling and friendly, surprised to see foreigners. I found them charming and gracious, though they must have been mentally and emotionally fatigued. Many were evacuees also. The women busied themselves with cooking and tidying and tending to the massive stores of donated goods also housed in the gym; the men unloaded the trucks that came to drop off more goods every hour or so. Many of the younger men had gone to clean up what remained of their homes. In contrast, the very elderly evacuees stayed mostly in the sleeping/living area—they were quiet and stoic—they neither smiled, nor wept, nor talked. The head of the center told me they were simple, strong people of the rural coast. But many had “a thousand yard stare,” that belied the horrific trauma they had encountered just a few short weeks before.

    The medical work was surprisingly light. People came in for hay fever, or constipation, or coughs and colds. Some came in under the auspices of pain, but just wanted an outsider to talk to. The NMS doctors were polite and kind and offered a warm hand and an open ear. I was pleased to see how aggressively they asked about the symptoms of acute stress disorder—sleeping, anxiety, and stress. All in all, though, the pathology was no different than one would have found in a primary care clinic in the area on, say, March 10th. Sitting in the medical tent, I remembered how 9/11 was described to me as a black tag-white tag event; people either lived or they died. There was very little in between. Tohoku is just like that. Even the 93-year old man we met in one nursing home (who had dog-paddled his way from his submerged home for an hour before being rescued) complained, not so bitterly, only of his mild cold and the lack of TV. But those words were like music and it was a relief to me that there was nothing more grave to talk about.

    I think Tohoku’s medical challenges that will be faced going forward are the same ones that it has faced for the last several decades—the challenge of a physician shortage, physician maldistribution, and lack of rural primary care coverage. These issues are, of course, coupled with a large elderly population of folks with chronic diseases—diabetes, hypertension, age-related failure to thrive, and dementia—not to mention those that are home-bound. It’s ironic, but in a way, my trip was uplifting despite the scale of the tragedy. Medically, the Tohoku coast has probably never had it so “good”—there are probably more doctors up there now than the areas has seen in a long, long time. I anticipate that their eventual leaving will hit the populace hard. But I do believe that the disaster has a silver lining in highlighting the longer-term needs of the area—and in that respect, I left the area with much, much more hope than that with which I had come.

    Gautam A. Deshpande, M.D., Ph.D.
    Staff Physician
    Embassy of the United States, Tokyo, Japan
    Assistant Clinical Professor of Medicine
    University of Hawaii